人生を長く生きた方の話を聞くのが好きなので、本当は、実在の方々の伝記を書きたいと思っています。
でも、プライバシーの問題もあり、なかなか難しい所もあるので、伝記と、伝記ぽい話を織り交ぜていこうと思っています。
実在する方の本当の伝記もありますが、私が創作した伝記ぽい話もあります。
伝記ぽい話は、これまでに私が見聞きした実在の方の話を換骨奪胎したつくり話になります。

佐藤五郎さんと原爆

佐藤五郎(仮名)さんは、広島県の小さな町で生まれた。
昭和一桁生まれの五男坊だ。
日本が戦争に向かう時代で、「産めよ増やせよ」の富国強兵政策がとられていた時代だった。
ただ、国の方針はそうでも、実際の家庭において5番目の子供というのは、極めて肩身の狭い存在だったと言う。
しかも、5人の子供は全員、男だったことから、五郎さんは兄弟の中でも何かと乱暴な目に合うことが多かったようだ。
家は酒屋を営んでおり、父親はその当主であることからも、家父長的な厳格な存在だった。五郎さんはまともに父親と会話をした記憶がない。
一方、母親はとても優しく五郎さんは大好きだったが、家業に忙しく、五郎さんにまでなかなか手が回らない。
そうした環境で育ったためか、五郎さんは幼少期のことについてあまり語りがらない。
唯一、少し自慢そうに話してくれたのが、家の外でいじめられたりすることはほとんどなかったということだ。
何故なら、2番目の兄が、その界隈では「下り線の次郎」と言われる番長的な存在で、その威光のおかげで五郎さんは随分、色んなことから守られていたらしい。
ちなみに「下り線」と言うのは、学校に通う私鉄線の帰路のことを言う。次郎は、席の真ん中を陣取り、周囲を睥睨していたらしい。

さて、戦争が始まり敗戦の色濃くなってきた頃、五郎さんに転機が訪れた。
広島市への疎開が始まったのだ。五郎さんは中学生だったが、生まれた町ではなく、広島市にいた。
疎開と言うと、田舎へ疎開するイメージでいたが、五郎さん曰く、何故か広島市へ“疎開”ということだった。
しかし、そのことが五郎さんの人生に決定的な刻印を刻むことになる。
その事件は、昭和20年8月15日の8時15分に起こった。
広島への原子爆弾投下である。

五郎さんはその時、学校の校舎の塀の近くにいた。すると、近くにいた友達が言った。
「おい、あれB29じゃ。」
一機のB29が、空を飛んできているのだ。一機だけで広島の空を自由に飛べること自体、日本が制空権を完全に失っていることを示していた。
だが、当時、中学生だった子供たちにそういう認識があるはずもない。むしろ、日本は勝っているという大本営の発表も疑うことなく信じていたのだ。
「おい、あれ何なら?」
B29が、何かきらきら光るものを落とした。
「おい、危ないど。」
何人かの友達は学校の校舎の中に逃げ込んだ。五郎さんは、何だろう?と思いながら、そのままぼ~っと立っていた。
その光る何かが建物の影に隠れたその瞬間、ピッカっとせん光が発した。五郎さんは、その時のことを、卵の黄色い黄身に包まれたようだったと言っている。

どれくらいの時間がたっただろうか。五郎さんは気絶から目覚めた。
周囲は煙で薄暗く、五郎さんはその中で地面に突っ伏していた。しばらくじっとしたが、様子を探りながらもそもそと起き上がった。
五郎さんがまずしたことは、弁当箱の入ったかばんを探すことだった。肩からひもで吊り下げるかばんだったが、ひもが引きちぎれてかばん本体がなくなっていたのだ。
後から思ったことだが、それは原子爆弾の爆風の強烈さを物語っていた。
五郎さんは何とかかばんを見つけ出し、中にはいっていた弁当箱を開けてみた。すると、中味は煤けたように真っ黒になっていた。
(これじゃあ食べれん。)
五郎さんは本能的にそう思い、弁当を捨てた。
弁当を捨てた時にようやく気付いたのだが、あたりは瓦礫の山となっていた。校舎もぺしゃんこに潰れていた。
実は、五郎さんのいた場所は爆心地からわずか1.2kmの地点だった。五郎さんと他の数人だけが、学校の塀で熱線から守られ、奇跡的に助かっていた。
五郎さんは、近くにいた友だち1人と「逃げるんじゃ」と言って逃げ始めた。
するとその時、五郎さんの名前を呼ぶ声が聞こえた。見ると、友だちのひとりが、大きな柱に右腕を挟まれて身動きができず、助けを求めていた。
「大変じゃ、ちょっと待て。」
そう言って五郎さん達はその大きな柱を何とか持ち上げようとしが、びくともしない。
「誰かあ、助けてくれえ。」
大きな声で応援を求めていると、軍人がひとりやってきた。しかし、軍人と一緒になっても柱は持ち上がらない。
「こりゃあ右腕を切るしかないのお。」
と軍人は言う。身動きできない友だちは「やめてやめて」と泣き叫ぶ。
「お前らはもう行け!」
軍人は五郎さん達に先に逃げることを命じた。五郎さん達はためらいながらも、その場を後にした。
五郎さん達は、とりあえず比治山という近くの山を目指し、登った。火の手から逃げることが先決と考えたのだ。

山の中腹で五郎さん達が休憩をとっていた時、友だちが言った。
「顔がなんかひりひりするのお。」
その友だちが自分の顔をなでた瞬間だった。友だちの顔の至るところで水ぶくれがぶくぶく膨れ始めたのだ。
「おい、やめえやめえ。」
五郎さんは慌てて友だちに言った。だが、友だちの顔は、既に見るに堪えない状態になっていた。

しばらく休んで後、五郎さんは友だちと別れて、20km以上離れた実家の家へと向かった。
そこからの道程はまさに地獄だった。至るところで火の手が上がり、人間かどうかわからない形を人たちがゆらゆらと逃げていた。
爆心地からある程度離れた所の方が、原型をとどめている分、むしろ凄惨さを極めていた。だが、五郎さんはその時はもう何も感じなかったと言う。
「地獄」と言う表現は、あくまで後付けだったと五郎さんは言う。

川は、お腹の膨らんだ死体であふれていた。
「川の水は飲んだらだめじゃ!」
軍人たちは怒鳴っている。熱波で焼かれた人たちが水を求めてさまよっているが、与えられる水はほとんどなかった。
五郎さんは火傷も含めて大きな怪我はなかったが、喉の渇きだけは強烈に襲ってきた。まさに喉が焼かれているようだった。
五郎さんは、とぼとぼと、遠い家に必死に向かうしかなかった。
そして、一体、どれほど歩いただろうか。町並みもようやく普通になってきたあたりで、ある一件の家の戸を叩いた。
「すみません。水を、水をわけてください。」
五郎さんがそうお願いをすると、その家のおばさんが、五郎さんに水と、冷えたトマトをひとつくれた。
五郎さんは言う。
「その時のトマトのうまかったことうまかったこと。わしゃあ忘れられんけえ。」
五郎さんが人生で一番うまかったと言うそのトマトに力を得て、五郎さんは再び家に向かった。
家に戻る道がわからないので、五郎さんは線路伝いの道を、線路伝いの道がない時には線路の上を、ひたらすら歩いて家に向かった。
どれくらい歩いたかよくわからないくらい五郎さんは疲労困憊していたが、五郎さんはついに実家の家に辿り着いた。
するとその時、五郎さんの母親が、五郎さんを線路の上で待っていたと言う。
五郎さんの母親は、きっと五郎さんは線路伝いに帰ってくるだろうと思って、ずっと線路の上で五郎さんを待っていたらしい。
五郎さんはこうして奇跡的に助かったが、実は五郎さんの兄の一人も、特攻隊に所属していたがその後、終戦になったことで生き残ることができた。
五郎さん達の兄弟は、一人も欠けることなく、終戦を迎えることができた。
ただ当時の日本では、5人の息子が全員、無傷で生き残ったということで、五郎さんの母親は肩身の狭い思いをしたということだ

五郎さんはその後、横浜へ移り住み、ある卸問屋に就職した。そして、そこの事務員だった女性と結婚をする。
一男一女をもうけ、真面目に働き、それなりに出世もした。
お酒とスキーが大好きで、よく働きよく遊ぶ人生を過ごしてきた。
特に、人生に悔いはないと言う。

或る時、中学の時の同窓会があり、五郎さんは何十年かぶりに旧友たちと再会した。
するとその同窓会で、五郎さんは、柱に右腕を挟まれて動けなくなっていた友だちと再会をした。
五郎さんは驚き、「おお、お前、生きっとたんか!」と言い、思わず右腕を見た。
右腕は残っており、五郎さんの胸には、後ろめたさと安堵の両方の思いがかすめたそうだ。


小林正太さんの生涯

小林正太(仮名)さんは、熊本県のとある地方都市で昭和13年に生まれた。
戦争の記憶はほとんどないが、戦後間もない貧しかった日本の中でも、とりわけ貧しい家庭で正太さんは育った。
「子供の頃はとにかく貧乏だった」というのが正太さんの口癖だ。
正太さんは、11人兄弟の10番目の子供で、服から何から持ち物すべては兄さんたちからのいわゆる“おさがり”だった。
正太さんの父は離婚と再婚をしており、正太さんは父の2番目の奥さんの息子だった。
父はとても厳しい人で、寝ている父の頭側を正太さんが歩くだけで、正太さんはひどく怒られた。
兄弟関係も複雑で、正太さん曰く、“ろくでもない人物”が多かった。
ただ、一歳下の弟とだけは仲が良く、正太さんはとても可愛がっていたらしい。小さい頃はよくおんぶをして面倒をみていたそうだ。
貧しい日本の中でもとりわけ貧しい家庭で育った正太さんは、そのために小学校でも色々といじめられた。
正太さんのお尻には大きな傷跡があるのだが、それは崖から突き落されて、岩の角で切り裂かれたものだという。
お手伝いで買い物に行っても、近所の商店の人に軽く見られて、お米を買う時も、量をごまかされたりした。
それに対して正太さんは文句を言うこともできず、ずいぶんと悔しい思いをしたそうだ。
正太さんはほとんど小学校に行くことはなく、ぶらぶらと山や海で時間をつぶして過ごしていた。
当然ながら、正太さんはまったく勉強ができず、中学生になってからもほとんど登校をしなかった。
当時は漢字もほとんど読めず、算数も掛け算、割り算はできなかったらしい。
正太さんは、中学生の頃のことまでについてはとても口数が少なく、多くを語ろうとしなかった。

中学校を卒業し、正太さんは何人かの兄弟と一緒に東京へ出てきた。
熊本にはよい思い出もなく、未練はなかった。東京に出てきて、正太さんと兄弟はそれぞれに仕事を探した。
正太さんが最初にした仕事は鮮魚店の仕出しだった。正太さんは小柄な体格だったが運動神経はよく、手先も器用だった。
料理の盛り付けを任されるようになると正太さんはたちまち上達し、店主からもよくほめられるようになった。
特に、薔薇をかたどった飾り付けが得意だったらしい。
また、歌もうまくて、演歌歌手にならないかと、どこまで真実味のある話かわらかないが、誰かから誘われたこともあるらしい。
もちろん、いいことばかりではなく、苦労の方が格段に多かった。
正太さんは漢字の読み書きや算数の掛け算割りもろくにできなかったので、その点では特に苦労をした。
そこである時、正太さんは一念発起して、漢字や算数の猛勉強を開始した。
正太さんの勉強は、これから社会の中で生き抜いていくために、まさに必要に迫られた勉強だった。
東京に出てから、正太さんはいくつか職場を転々とした。
その内のひとつのある会社で、正太さんは、生涯の伴侶となる女性と出会うことになる。名は紀子と言う。
紀子さんはその会社の事務員だったが、正太さんは一目見た瞬間から惚れ抜いてしまった。
そして、幸いなことに、紀子さんもまた正太さんに好意を持ち、二人の交際は始まった。
後に正太さんは、自分の子供たちには「ばあさん(紀子さんのこと)が私と結婚してくれなきゃ死んじゃう~と
言うから結婚したんだよ」と言っていたが、実際には正太さんからの猛烈なアプローチだった。
紀子さんは、そういう正太さんをとても愛おしく思っていたようで、仲睦まじい相思相愛の恋人同士だった。
紀子さんが住んでいたのは正太さんのアパートから5kmも離れていたが、二人は別れるのが名残惜しく、
正太さんは紀子さんを家に送る度に、往復10kmも歩いていたと言う。
そうして、間もなくふたりは結婚した。娘ひとり、息子ひとりも誕生し、貧しくはあったが順調な家庭生活がスタートしていた。

ある時期、正太さんは駅前の不動産会社に勤めていた。
その頃の正太さんは決して真面目とは言えず、仕事が終わるとほぼ毎日のように雀荘に通っていた。
正太さんがなかなか帰ってこないので、紀子さんはよくその雀荘に電話をしていたのだが、その内正太さんは居留守を使うようになった。
そこで紀子さんは、今度は娘に「お父さんいますか?」と、電話をさせるようになった。
小さい女の子からの電話なので、雀荘のママもさすがにかわいそうに思って、「娘さんから電話よ」と、正太さんに電話をつなぐのだった。
「お父さん、早く帰ってきて」と娘から言われて、正太さんは「わかった、わかった、もう少しで帰るよ」と返事するのだった。
正太さんはこのようにいつも帰りが遅く、酔っぱらっていることが多かった。
それでも二人の仲はよく、喧嘩することもなかったのだが、ある時、ものすごい剣幕で紀子さんが怒ったことがあった。
正太さんが、麻雀で負けて1ヵ月分の給料を全部すってしまったのだ。
紀子さんは自分のパート代や近所からの借金で日々の家計をやりくりしていたが、がまんをして文句を言うこともなかった。
それが、1ヵ月分の給料を全部すってしまったことで、ついに堪忍袋の糸が切れた。娘と息子が茫然と見守る中、紀子さんは泣きながら怒っていた。
紀子さんのあまりの剣幕に、正太さんもさすがに反省をして、麻雀はやめた。
だが、人づきあいのよさからか、それでも飲みに行くのだけはやめなかった。
しかも、いくつかの飲み屋で出入り禁止になったりしていた。
正太さんは、何もないのに急に出入り禁止になったと言うのだが、おそらくつけを払わなかったのか、酒癖の問題だったのだろう。
だがそれでも、紀子さんは正太さんのことを嫌いになることはなかった。
家賃もきちんと払えない生活の中で、紀子さんは不真面目な正太さんのことを愚直に愛し続けていた。
そのことが、少しずつ、正太さんに気持ちに影響を与えていた。

月日が経過し、ある日ある時、正太さんは一大決心をする。
不動産会社を退職し、住宅の基礎工事の仕事を個人事業主として始めたのだ。
トラック1台と小さなプレハブ小屋だけで始めたのだが、身体が丈夫で手先が器用だったこともあり、仕事自体は正太さんに向いていた。
住宅メーカーに営業に行き、仕事をもらい、順調に売上を伸ばしていった。
専門的な技術も経験もあったわけでもないのだが、大手住宅メーカーの仕事も請け負うようになった。 高度成長期でもあり、牧歌的な時代でもあったということもあるが、正太さんが生来もっていた人としての力が徐々に育ち始め、それが社会の信用を獲得していった。
一言で言えば面倒のよさとか優しさということになるが、困っている人や弱っている人がいると、自分のことを度外視して助けようとする。
そしてそれに対する見返りは一切求めない、それが正太さんの本質だった。

しかし、正太さんのその「本質」が裏目に出ることもしばしばあった。
ある時、正太さんは信じていた人にだまされて、何百万円もの損害を受けることになった。
それまでにも正太さんは、安易に人を信じてだまされたことが何度かあったが、何百万円もの損害を受けることになったのは初めてだった。
さすがに正太さんはショックを受けて、自分は学がない田舎者だからこんな目に合うのかと落ち込んだ。
仕事に必要な材料などを借金して仕入れていたので、それらの請求書も次々とやってくる。
妻の紀子さんも、もちろん落ち込んだ。
紀子さんは、その当時高校生になっていた娘に、「お小遣いをあげられなくなったから、自分でアルバイトしてくれる?」と頼んだ。
娘は「いいよ」と答えた。元々アルバイトをしていて、月に3〜4万円はかせいでいたので、まあいいやという感じだったらしい。
ただ、その頃、娘は父の正太さんのことが好きではなかった。
娘はテレビに出てくるサラリーマンのお父さん像に憧れていて、いつも泥だらけで飲みまわってばかりいる正太さんのことが嫌でたまらなかったのだ。
3年間くらい、まともに話をしていなかったらしい。
娘は、自分の父が何百万円もだまされたということを知った時、父の正太さんに対して「だまされたお父さんが悪いんじゃない!」と言った。
正太さんは「お前はひとの気持がわからないのか」と静かに答えた。
娘は、心の中では“今、大変なことが起こっている”と思いながらも、父に対して素直になれず、“そんなの知らない”という態度をとっていたという。
娘は今、その時のことを後悔している。

正太さんは銀行や親戚、知り合いなど、片端から当たれるところ全てに当たってお金を工面した。
正太さんにとって、記憶にないくらい、苦しくて色々とあった時期だった。
幸運だったのは、大手住宅メーカーからの発注が増えてきたことだった。
建設の仕事は、天気が悪いと進行が遅れたりするものだが、正太さんは雨が降っても仕事を休まず、そうしたクライアントの信頼を獲得していった。
埼玉や神奈川、山梨など、遠方の仕事も積極的に引き受けた。
大手住宅メーカーは支払いの心配がなく、正太さんの会社は徐々に苦境を脱してきた。
ただ、正太さんは仕事のストレスを発散するために、パチンコや近所の飲み屋には通い続けていた。
(但し、以前のような深酒はせず、その頃は麻雀もやめていた。)

正太さんは社員のことをとても大切にしていて、飲み会を度々開いていたのに加えて、年に一度は、社員とその家族を連れて旅行をしていた。そのお金はすべて正太さんが自腹で負担していた。
正太さんの会社の社員は、色々な出自のひとがいて、刑務所が出てきたばかりのひとや、元(やや過激な)政治団体のひと、外国籍の方(当時は少なかった)などがいた。
正太さんはそのひとたちのことを一切差別することなく受けれて、そのひとたちが独立したいと言ってきた時には快く受け入れて、自分のお客さまを譲ってあげたりもした。
日本国籍をとりたいと言う外国籍の方には、帰化できるように、できる限りの協力もしていた。

そうしている内に、日本の景気が徐々によくなってきて、いわゆるバブルの時代がやってきた。
正太さんはその波にのり、事業を拡げようとして、埼玉の土地を買い支店をつくった。
その土地は、近くに高速道路のインターチェンジができる予定だとある人から聞き、購入したのだった。
だが、そのインターチェンジはできることはなく、数年後、バブルがはじけた。

1993年、正太さんの長女が結婚をした。正太さんは、長女には心配をかけたくなかったので、仕事のことは普段からほとんど話さなかった。
長女は普通の会社員と結婚し、幸せな家庭を築いた。正太さんはとても満足だった。正太さんは、いずれ自分の家をマンションに建て替えるという夢を持っていた。
そして、そのマンションの一室を長女夫婦に譲りたいという話を、よく娘夫婦に語っていた。
しかし実際には、正太さんの仕事は次第に厳しくなっていった。バブルがはじけ、仕事がなくなってきたのだ。
埼玉の支店も完全にお荷物となり、億単位の借金だけが重くのしかかってきた。
正太さんは、それでも社員をリストラすることなく、仕事もないのに社員に給料を払い続けていた。
正太さんは、長男に自分の会社を継がせるつもりで、高校を卒業して間もない長男に会社の仕事を手伝わせていた。
だが、長男は会社の苦境を知っていたので、「この先どうするつもりなのか。」「社員はどうするのか。」「もっと営業をしよう」などなど、正太さんを問い詰め、ふたりはしばしば言い争いになっていた。

1995年、正太さんの初孫が産まれた。
正太さんの長女が、28時間に及ぶ難産の末、正太さんのこの世の「宝」を産んだのだ。
正太さんの長女は、しばしば孫を連れて実家に戻り、正太さんはいつもそれを楽しみにしていた。
正太さんは、よくその孫を連れて外に出かけた。
孫が電車好きだったので電車を見に行くことが多かったが、時にはパチンコに行ったりもした。
パチンコで孫が喜ぶおもちゃの景品を山ほどゲットして帰宅した時には、「あんなたばこの煙だらけの所に連れて行って!」と、長女にめっぽう怒られたりもした。
1998年には、長女の第2子、正太さんの二人目の孫も産まれた。この世に生まれたふたつの「宝」を、正太さんはとにかく可愛がった。
孫たちのために、事務所兼自宅を改造して、孫たちが走り回れる広さのベランダをつくったりもしたほどだ。
会社の経営はますます厳しさを増していたが、正太さんの幸せな時代だったかもしれない。

2000年、その時がきた。
ある春の日の早朝、正太さんが突然、倒れたのだ。正太さんはすぐ救急車で運ばれ、集中治療室にはいった。家族も全員集まった。
正太さんは脳卒中で、意識不明のこん睡状態だった。医師が家族に説明をした。
「残念ながら、回復の見込みはありません。」

その後、正太さんは一般病棟の個室に移った。
ナースステーションのすぐ近くで、何かあればすぐに対応できる場所だ。
ただ、一般病棟なので、誰もが正太さんに会いに来ることができた。
家族や正太さんの孫、親戚はもちろん、正太さんの会社の社員や取引先のひとたちが、続々と正太さんの元を訪れた。
そして、ひとりひとりが、意識のない正太さんに話しかけていった。正太さんは、かすかないびきをたて、眠ったままだ。
会社の社員の中には、正太さんのそばにいるために、病院の駐車場で寝泊まりするひとまでいた。
社員のひとりは、正太さんの家族に「社長は復活するよね。社長は強いから大丈夫だよね。」と、自分にも言い聞かせるように言った。
正太さんに回復の見込みがないことを知る家族は、黙ってうなずくだけだった。

2000年4月29日、正太さんはその生涯を終えた。
家族に見守られて、眠るような最後だった。
享年63歳。まだ亡くなるには早すぎたが、幸せな人生だったと思われる。


和田さんと跳び箱

和田さんが中学二年生だった時の話。
和田さんは運動音痴で、体育の授業が嫌いだった。
ある時、体育の授業で跳び箱があった。高い跳び箱と低い跳び箱があって、皆、自分が選んだ方を跳ぶルールだった。
ほとんどの人が高い跳び箱を跳ぶのだが、和田さんはもちろん低い跳び箱を選んでいた。だが、和田さんはその低い跳び箱を跳ぶこともできなかった。
低い跳び箱でも跳べないのは、一番背の低い田中くんと一番体重の重い佐藤くんだけだった。
そうした中、体育の先生は、急に他の場所で体育をしていた女子生徒を全員呼んで、跳び箱を跳ぶ男子を見せ始めた。中学二年の男子にとって、女子全員が見守る中での心中は、察するにあまりあるところ。
男子は全員が高い跳び箱を選び、男子が高い跳び箱を跳ぶたびに女子から歓声があがった。
跳び箱を跳ぶ順番はあいうえお順なので、和田さんは一番最後だった。和田さんにとって、まさに最大のピンチだった。
そして、和田さんにとってさらに信じられないことが起こった。田中くんも佐藤くんも高い跳び箱を選び、しかも跳んでしまったのだ。
和田さんは最大最悪のピンチに陥った。否応なく順番が進み、ついに和田さんの番になった。
和田さんはまさか自分だけが低い跳び箱を選ぶわけにはいかず、高い跳び箱に向かって走っていた。
すると、奇跡が起こった。高い跳び箱を跳べたのだ。
その時の体育の先生は木村先生というのだが、とてもいい先生だった。
その先生の目から見て、高い跳び箱を跳ぶことはできるはずだ、本気を出してないだけだ、とう判断があり、あえて女子生徒全員に見させるという賭けに出たのだろう。
そして、木村先生の意図通りとなり、和田さんにとっても貴重な体験になった。


60歳からの鈴木由紀子さん

鈴木由紀子さんは60歳の時、夫を脳溢血で亡くした。
とても仲のよい夫婦で、由紀子さんは夫のことを深く愛していた。
だが、葬儀を終えた後の由紀子さんは多忙を極め、悲しんでいる時間がなかった。
夫は十数名の社員を抱える事業を営み、由紀子さんも副社長のような立場で夫の仕事を手伝っていたからだ。
由紀子さんは毎日、役所関係や銀行に通い、様々な手続きをこなした。会社や家の名義、土地の登記の変更を初め、面倒だがやらなければならないことが山ほどあった。
特に、夫の死亡届が出された途端、銀行口座が凍結されてしまうので、その手続きは急を要した。由紀子さんには、社員のためにも夫の事業を続けていく義務と責任があった。
少なくとも人前では、由紀子さんが涙を見せたのは夫の葬儀の時だけだった。由紀子さんと長く一緒に仕事をしていたパートの女性も、当時の由紀子さんのことをとても心配していたらしい。

夫の新盆の折、由紀子さんは僧侶を自宅に招いた。
家族も集まり団欒をしたのだが、その時の部屋の換気が悪く、由紀子さんの娘が肺炎となり入院してしまった。 娘には当時、2歳と4歳の息子がおり、娘の夫は会社員で子供たちの面倒を見ることができなかった。
そこで、娘の家族は由紀子さんの家でお世話になることになった。由紀子さんは、孫のことはもちろんかわいかったのだが、仕事と家事を両方行うことはとても大変だった。
由紀子さんは娘に電話をかけ、「とにかく早く帰ってきて」と懇願した。娘は医者とかけあったが、医者はまだ退院させられないと言う。 それでも由紀子さんは、「すごく大変だから、とにかく早く帰ってきて」と娘に何度も繰り返した。
そうしたあわただしい暮らしの中で、由紀子さんは徐々に元気を取り戻していった。

由紀子さんは、夫の事業を息子と一緒に受け継ぎ、しばらく経営を続けた。
だが、事業のために夫は1億2千万円もの借金をしており、利子の支払い負担は大きかった。事業環境も厳しく、やがて資金繰りは自転車操業になっていった。
ある時、由紀子さんは息子と相談し、ついに事業をやめることを決断した。
由紀子さんは、今後の対応について、知人を通じて弁護士に相談をした。
その弁護士は、会社の資金を給与として由紀子さんと息子の資産に移すことを奨めた。そしてその上で、破産処理をすることを提案した。
少しでも資産を残すためには、それは今考えても最善策だった。
しかし、由紀子さんは、今まで自分たちのことを支えてくれた社員たちのことを考えると、自分たちだけが助かるという判断はできなかった。それは、由紀子さんの息子も同じ考えだった。
最終的に由紀子さんは、自宅兼事務所の土地と家を売り、借金を清算した。
由紀子さんは、借金もなくなったが、資産もなくなった。
由紀子さんは老後のために4千万円を貯めていたが、会社の経営が厳しかった時、2千万円を会社に貸し付けていた。それは、社員に給与を支払いためだった。
今回の清算に当たり、その貸付金も消失してしまった。
由紀子さんの資産は2千万円となった。逆に言えば、2千万円は残ったと言えるが、実は致命的なことがあった。
由紀子さんの夫は国民保険に加入しておらず、遺族年金がはいらなかった。由紀子さんも、国民年金に加入したのは随分遅かったので、老後に支給される金額は通常の半分以下だった。
だがそれでも、由紀子さんは「借金がないことがこれほど幸せだなんて」とよく言っていた。
会社を清算して後、由紀子さんは清掃のパートの仕事を始めた。
薄給ではあったが、借金を背負った会社経営のプレッシャーから解放され、由紀子さんはある意味、心の安定した生活を手に入れることができたのだ。


次回予定

次回予定


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