月面居住一年目、最初に感動したのは「静けさ」じゃなかった。
トイレの吸引音だ。ぶおおお、と宇宙に吸い込まれていく感じがして、みんな用もないのに座っては笑った。
重力は六分の一。引っ越し初日の乾杯で、ビールの泡が球になってふわりと逃げ、指でつまんだ新人が「泡、捕獲しました!」と敬礼した。基地の伝統芸になった。
いいことも多い。洗濯物がすぐ乾く。筋トレの成果が分かりやすい。地球が窓に掛かった青い皿みたいで、嫌な上司の顔がちっぽけに見える。
でも苦労も、ちゃんと“月”だ。粉っぽい砂はどこにでも入り込み、ドアのパッキンを削り、靴下の中まで侵略してくる。
三日目で全員、掃除用語だけ妙に流暢になった。「静電ブラシ貸して」「シール交換、今日だっけ」。
最大の敵は「昼と夜が長すぎる」こと。二週間の夜に、ホームシックが濃くなる。そこで誰かが提案した。
「地球の“朝番組”を、ここで作ろう」
ニュースは基地内だけ。天気予報は「本日も真空、降水確率0%」。占いは「ラッキーアイテム:パッキン」。くだらなくて最高だった。
一年目の終わり、みんなで外に出た。影がゆっくり伸びる。誰かが言う。
「ねえ、来年は泡を逃がさない乾杯、できるかな」
できなくていい。月では、失敗がやけにきれいに跳ねる。